とりとめのない話しですが
増田義紀の事を少しでもわかって頂きたいとの思いから
WEBサイト開設に当たり書いてみました
1988年3月
埼玉県立川越農業高校園芸科(現川越総合高校)卒業
1988年4月
静岡県立農林短期大学校(現農林大学校)茶業課程入学
1989年3月
静岡県立農林短期大学校(現農林大学校)茶業課程卒業
1990年6月
伊藤園茶専門店茶十徳西友荻窪店勤務
1991年6月
かねもり森田園入社 森田康弘氏に茶の販売を師事。
1992年4月
有限会社増田園入社
1999年4月
富士短期大学(現東京富士大学)夜間部(2部)
科目履修生として経営学・会計学を学ぶ。
2000年4月
富士短期大学経営学科(現東京富士大学)夜間部入学
2002年3月
富士短期大学(現東京富士大学)経営学科夜間部卒業
2002年4月
東京富士大学経営学部ビジネス学科夜間部入学
2004年3月
東京富士大学経営学部ビジネス学科夜間部卒業
現在に至る
昭和45年2月11日の建国記念日に埼玉県所沢市にて増田家の長男として生まれました。幼少時は、祖父、両親と弟、それに叔父、叔母の8人家族で過ごしました。
幼稚園は、地元の所沢第二文化幼稚園へ入園しました。おばあちゃん子だった私は、登園初日、泣きながらバスに乗ったのを今でも覚えています。内向型の性格は、今でも変わりません。
小学校は、地元所沢市立北秋津小学校へ入学。私の自宅から徒歩5分くらいの所にあるのですが、昔、友達と野球や六虫(ろくむし)などをやって遊んだことを思い出します。昨年、私の長男が母校に入学したのですが、40年ぶりに聴いた校歌は、懐かしかった。
勉強は出来ませんでした。(苦笑)成績表は、いつもがーがーがー・・・のあひるさん。小学校6年で3ケタの引き算が出来ず、補習授業受けたのは今でも記憶に残っています。
中学校は、地元所沢市立南陵(なんりょう)中学校へ入学。あまり目立たなかった性格で、「増田昨日学校来ていた?」なんて言われたことありました。目立たなかったと言えば、卒業後、10年ほど経った頃、所沢市の市民フェスティバルでテントを借り、増田園で出店したことがありました。「いらっしゃい!」と威勢よく声を張り上げる私の店に、当時担任だった先生が来ました。「先生!教え子の増田義紀ですよ」と声をかけたのですが、「えっ?俺の教え子だったっけ?」という不思議な顔をして店を後にして行ったのでありました。
高校は、農家の長男であったため、親の強い薦めもあり、埼玉県立川越農業高等学校(現川越総合高校)へ進学。ここで陸上部に所属して円盤投げに没頭します。入学当時、成績はクラスで上位だったのですが、「部活、部活、部活・・・」の毎日で成績は振るわなくなりました。一度だけ、赤点を取った時には母親が泣いていました。本当に申し訳なかったと今でも思い出します。
円盤投げの成績は、高校2年の新人戦で記録なし。という結果に・・・毎日、毎日練習に励んだ俺は何だったんだ!そんな心境でした。当時、陸上競技マガジンという月刊誌を購読していたのですが、その読者の広場みたいなページがありました。その欄に詩を書いて投稿してみました。気持ちの整理をしたかったのだと思います。たまたま、私の書いた詩が編集者の目に留まったようで、全国版に私の詩が掲載された事がありました。
そんなツキを見方にしてか、高校生活最後の春と夏の大会には、地区予選を通過。晴れて県大会へ出場することが出来たのです。
高校卒業後は、家業の茶業を継ぐため、静岡県立農林短期大学校(現農林大学校)の茶業課程へ進学。生まれて初めての親元を離れての寮生活。緊張のしっぱなしでした。ほとんどが静岡県の人ばかりで、県外から入学したのは、私と宮崎の加藤君のみ。茶畑の管理から茶の製造、茶の分析など茶のオールラウンドプレーヤーを養成する学校でした。「増田は静岡県の税金で勉強している・・・」などと皮肉を言われたこともありましたが、私を受け入れてくれた学校に泥を塗ってはいけないという強い気持ちで勉学に励んだのを覚えています。
卒業後は、茶の販売を勉強するために、埼玉県入間市にある茶問屋へ修行に行きました。いくら良いものを作っても売れなければ意味がない。そんな気持ちを持ったものです。そこでは、茶の2次加工をはじめ、デパートでの催事販売を経験。人前で話すことが苦手だった(今でも苦手ですが・・・)私がショックを受けたのは、「いらっしゃいませ」が大きな声で言えなかったことです。(苦笑)
店の前を通りすぎる人に声をかけ、試飲をしてもらう。こうやって書けば簡単ですが、実際にやってみると出来ないものでした。師匠は慣れた手つきで次々に接客をこなして行きます。私は呆然として見ているだけ・・・そんな初日でした。翌日もあまり進歩はありませんでした。でも、こんなことをしていては給料泥棒じゃないか!という気持ちが頭をよぎり、プライドを捨て、大きな声を出すことへ挑戦を始めました。師匠は、「遠くに行って、増田の声が聞こえるか試してみるわ・・・」と言い、店から何軒も離れたところで私の呼び込みを聞いていたのを昨日のことのように思い出します。
そんな甲斐あってか、徐々に売り上げが上がるようになり、師匠がいなくても同じような数字が叩き出せるまで成長することが出来ました。そんなささいな自信ですが、今の私の日本茶づくりへの情熱の基礎となっているのは紛れもない事実です。
平成31年1月 増田義紀